山崎さん、プロフィール追加しました
分子薬理部の具体的な研究紹介については、ホームページの別の箇所に書かれておりますので、私は研究に関連することではありますが、少し異なる趣旨のことを書かせていただきました。
まず私自身、センターの公式ホームページの紹介文には、このような内容を書きました。
「センターに着任する以前は、膜型増殖因子HB-EGFという増殖因子の変異マウスの解析およびヒトゲノム8番染色体のゲノム解析を行っていた。そしてこれまでには、主として遺伝性脳血管疾患であるモヤモヤ病、および遺伝性不整脈・心筋症の責任遺伝子の特定や機能解析、さらには動物モデルを用いた虚血性心疾患の代謝メカニズムの解析に従事してきた・・・(以下、略)」。
これは、positionにアプライしたときに行う、俗にいう「1分間自己紹介」というものにも相当します。しかし、本当にお伝えしたい内容は、実はこのようなことではありません。むしろお伝えしたかったのは、以下のようなことであります。すなわち、どうやって研究室で過ごすのか?研究を続けていく上で身に付けることは何であるのか?まだ基礎体力、もっというと土台ができていない段階で、自分が研究でやりたいこと(分野・内容など)を、果たして自分自身で具体的に決めることなど本当にできるのかどうか?このようなことがまず素朴な疑問であり、MD(Medical Doctor)の方であれ、4年制大学を出たライフサイエンス系の学生であれ、“大学院生となって研究室で活動する”というのは、実は上記のことを身に付け、見極めていくことにあるのだと思います。また私自身の経験からいいますと、大学院生の段階では、本当に研究していきたいことを見定めることは、おそらく難しいでしょう。だとすると、何が研究場所を選ぶのに必要なことになっていくのか?ということになりますが、おそらくは「研究環境」ということになるのだと思います。そして、このことこそが重要なことだと思うのですが、“本当に知っておくべき事”というものは公に書いたり語ったりすることは難しいもので、同じ場所で活動を行い、ある程度信頼関係ができた後に、初めてその仲間内で伝えることが可能なのだと思います(別の言葉でいいますと、これは真言宗の宗祖・弘法大師(空海)が実践した、「密教」により教えを伝授するのと似たところがあります)。ただ、以下のことだけは、おそらく認識しておいた方がよいように思います。
“あなた…『覚悟して来てる人』…………ですよね” ([ジョジョの奇妙な冒険・黄金の風]、のジョルノ・ジョバァーナのセリフより)”
ですので重ねて強調しますが、MDの方ならば自分の専門領域、ライフサイエンス系の学生ならば、まず研究が本当に好きかどうかを自問自答して、例えば心臓のエネルギー代謝に興味があるとか病気の治療に興味があるなど、少しでも自分の関心のある事に被ればそれで充分であり、その為にはいろいろな意味で“良好な環境にある研究室”に身をおくことが第一歩なのではないかと思うわけであります。
ところで、仮に“良好な環境にある研究室”で研究活動に入っていくとしても、現実的にはこのようなことが起こり得ます。例えていうと、
“僕だって人の生命を救うスペック(SPEC)が欲しかったですよ。ただ才能っていうのは、自分が望むものと一致しない(ドラマSPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜スペックホルダー海野 亮太のセリフより)”
これは、私個人としてはなかなか考えさせられるセリフであり、確かに一面の真理を伝えているのだと思います。正直自分自身のことを考えても、現在が望むべきものだったのかどうかなんてことはわかりません。しかし一方で、特に研究の分野に話を限定しますと、そもそも論として、自分の“強み”をきちんと自分自身で把握することなど本当にできるのか?個人的には、かなり難しいのではないかと思います。ですので、これは研究活動している早い段階から自問自答するしかない、ということにしかならないのだと思います(そのためにも、良い体験ができる場というものは、やはり重要なわけです)。
そして、とはいえ、本来的にはこのようにありたい(あくまでも願望ですが)、というのが、以下のことであります。すなわち、
“そうだな……わたしは「結果」だけを求めてはいない。「結果」だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ………………近道したとき真実を見失うかもしれない。やる気もしだいに失せていく。大切なのは「真実に向かおうとする意志」だと思っている([ジョジョの奇妙な冒険・黄金の風]、ある殉職警官のセリフより)”
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。最後になりますが、もし研究活動ということを少しでも考えておられるならば、問合せフォーム(問い合わせページ)までご連絡いただければ、幸いでございます。
(補遺)
さて、研究に直接的に役立つわけではありませんが、古今東西、哲学、文学など様々なジャンルにおいて、私達にとって示唆的なことを伝える“偉大な言葉”というものがありまして、それを借りて、以下に先ほどとは異なる角度のことを書かせていただきました。
まず、“自然科学”というものを考えたときに、このようなことを言った哲学者がいました。すなわち、
“人間は、存在者の主人ではないのである。人間は、存在の牧人なのである (マルティン・ハイデッガー、[ヒューマニズムについて])”
「人間は偉大なものの到来を待ち、それが我々の傍らをかすめる瞬間をとらえるものだ」、というのが、ドイツの20世紀最大の哲学者といわれるハイデッガーが伝える本来の意味であります。このことは、研究の世界にも容易に置き換えることができ、要するに、我々が対象としている医学生物学は、人体の現象、さらには病態現象というものを直截的に観察・測定していると、その時に到来するかもしれない発見を待望する、という感じなのだと思います。すなわち、我々研究者があれこれ想像できることというのは知れており、むしろ自然(≒研究対象)が語りかけてくれるタイミングを待つために実験を進める、というのが実際のところなのだと思います。そしておそらくは、自分たちの目の前を通り過ぎる“瞬間”(≒ブレークスルーにつながる科学的知見)に立ち会うことができることを面白いと感じとれるかどうかが、研究活動を行うかどうかを決めるのかもしれません。
ところが、私たちが関わっている実験科学というものを考えると、他方でこのようなことを言った哲学者もいます。すなわち、
“実験科学の発展は,その大部分が驚くほど凡庸な人間,凡庸以下でさえある人間の働きによって進められたということである(ホセ・オルテガ・イ・ガセット、[大衆の反逆])”
スペインの孤高の哲学者であるオルテガは、上記のことを決して肯定的に表現しているわけではないのですが(オルテガ自身は、総合知を持った真のエリートにより科学は発展するという見解)、理論物理学や純粋数学とは異なり、実験科学は小さい研究成果の集積なしには真に刺激的な科学者によるブレークスルーは生じないだろう、ということはこれまでの研究史から一先ず言えるのだと思います。現在、自然科学の研究はテクノロジーが進歩し情報も増えていくのは良いことなのですが、あまりに進行が急速であるが故に、個人の研究者ですべてをまかなうことはかなり困難になってきました。このことに適応することはおそらく必要でありますが、その一方で研究を行うために身につけなければいけないスキル、考え方などは上記の発展とは別にあるのだろうと思います。先ほども触れましたが、大学院生として研究活動を行うというのは、そのような段階と言えます。